ことわざ(諺)新解釈
【門前の小僧、習わぬ経を読む】
一般には、「日頃から見たり聞いたりしているものは、いつのまにか覚えてしまうものだということのたとえ」と解釈されているようです。
つまり、この諺は「環境がその人に及ぼす影響が大きい」ことを示唆していますし、さらには、「厳しい修行を経なくてもお経を覚えてしまう”小僧さん”を褒めている」のかもしれません。
ただ私は、前述のような解釈はしていません。この諺は、「勉強の大切さ」を教示していると解釈しています。
あくまで”私が見てきた範囲において”ですが、そもそも「勉強するとは何をするのか?」「何のために勉強をするのか?」ということがよくわかっていない方が、一般社会には多数いらっしゃるようです。
(不特定多数の方々に忖度して、具体例の列挙は割愛しますが)社会において何か仕事をする際は、その仕事に関わる”基礎的な知識”や ”エビデンスに裏打ちされた事実” を理解しながら進めていくことが必要です。また、これら必要な事柄を理解していない場合は、自身の時間を費やして習得することが必須です。
しかしながら、現実はそうでもありません。一部の(大部分の?)社会人は、もしかすると「各人の仕事において、勉強しなくても良い」とでも思っているのか、必要な事柄を十分に習得することなく、”仕事のようなこと”を行っています。
言い換えると、仕事の本質を自身で考える・勉強することなく、物事の表面だけを見て(聞いて)すべてを理解したような錯覚を持って、”仕事のようなこと”を行っています。
つまり、自身が能動的に勉強しているのではなく、「易きに流れて、受動的に入ってくる事柄のみを真に受けて、”仕事のようなこと”をしている様」が、あたかも、「門前の小僧が聞き覚えたお経を、意味を理解することなく口にしている様」に酷似しています。
<次へ続く>
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